親と子の心理的境界と侵襲について考える
心理学においての侵襲
手術の侵襲によるストレスが原因でうつ病につなばった名倉さん(ネプチューン)のことは何となく耳にしていると思う。
侵襲とは、医学的にはよく使われる言葉で、体には内部環境を一手に保とうとする恒常性があり、その恒常性を乱す可能性がある刺激をさす。
具体的には手術、注射、投薬などの医療行為や外傷や感染症などである。
では、心理学的に侵襲とはどういうことなのか。
その人のパーソナルな領域(自尊心、傷つき、などなど)に配慮なしに入り込んでしまようことをさす。
参考
心理学で使う【侵襲性】とはどういう意味ですか?どのような状況で使うのか具体... - Yahoo!知恵袋
kokoroshikaku.cocolog-nifty.com
親の過干渉は侵襲
育つ過程で親の態度で一番戸惑ったのが、二面性だった。
それと同じくらい嫌だったのは、過干渉だ。
私が1歳ごろの娘を連れて実家に帰省した時に、気が付いた。
母は娘におもちゃの扱い方を教えてその通りにやらせようとする。
これではまるでロボットアームだ。
子どもが遊んでいるのではなく、母が子どもを通して遊んでいる。
父は庭で、ほんの少しの段差も「危ないから行ってはいけない」と何度も繰り返す。
初孫が可愛くて目に入れても痛くない状態ではあったが、ちょっと行き過ぎている。
子どもは失敗を繰り返しながら学ぶ。
失敗という体験を事前に摘み取ってしまえば、子どもは経験することができない。
私が娘を自由に遊ばせていると、「全然面倒を見ない」という。
「見ているよ、本当に危ない時だけ手を出すから大丈夫。」と心の中では思ったが、説明しても理解してもらえるとは思えなかった。
この時にはっきりと自覚できなかったが、私は両親にかなり過干渉に育てられた。
(行動面には過干渉であったが、感情や心理的な面ではほぼネグレクトにに近かった。)
最大の過干渉の思い出は、小学校の卒業式での送辞を読むことになり、父親が書いてしまったことである。
下書きを何度も書き直しを命じられ、ダメだしされ、挙句の果てに父が書いて清書もしてしまったのである。
父は、自分が勝手に思い描いた計画通りに子どもが行動することを要求し、失敗すると責めた。
今思えば、戦時中の大本営のようである。
母は、父のように自分の要求を口にすることはない。
顔色と感情的な態度で私を操作する。
そうして、自分の手足のように私を扱う。
父の過干渉は家制度や軍隊教育に由来するものと思う。
母の過干渉は子や他者との境界を理解していないためと女は男に従う、子どもは大人に従うという習慣に由来すると思う。
両親の育った時代は、子どもが親の言うことを聞くのは当たり前、
個を大切にするより集団を優先する国家的、軍隊主義的教育もあった。
さらに母は発達障害の特徴もあり、自分と他者との関係性を理解することが苦手である。
二人とも子どもが独自の個性を持った存在で、その個性や意思を尊重しようという認識はなかった。
親の様々な要求やアドバイスが、時代や子どもの適性や能力にあって、子どもの感情や欲求を考慮したものであるならば、それは子どもの生きる力になることもある。
けれど、親の一方的で狭量な思い込みによる過ぎた干渉は、子どもが自立して生き抜く力を大きくそぐ結果となる。
垣根が壊れた荒れた庭のようだった私
ガーデニングが趣味なので、過去の自分の心の状態を庭に例えてみる。
親の過干渉・叱責・罵り・暴言などで絶え間なく侵襲されていた私は、垣根がほぼない荒れた庭のようだった。
なんとか自分を保とうと垣根を細々と修復するものの、勝手知った親は貧弱な垣根を乗り越え、なぎ倒し、この木はなかなか大きくならない、この花は見栄えが悪い、この草は見どころも何もないとあらを探し、庭の土を踏みつけて回る。
愛情(愛着)という土壌栄養が行き渡らない庭でも、やっと何とか実を数個、花を少し咲かせても、勝手にもいで持って行き、親の手柄のようにする。
そうしてもっと花を咲かせろ、実を生らせろと言う。
その要求はとどまるところを知らない。
(まるで愛に飢えた子どものようだ)
私はどうせ頑張っても報われないと学習し、庭は荒れ放題になる。
そうして、いつしか親のように人の庭に入り込んでしまったこともあった。
侵襲を頻繁に繰り返されると、他者との境界がわからなくなる。
両親もそうやって育ち、そういう生き方をしてきたのだろう。
私は自分自身がわからないところがあるが、両親もまた自分が何者であるのか、
わかってはいなかったと思う。
母(発達障害)のサバイバル戦略 受動と積極奇異
母は外面は受動型 内面は積極奇異型のようにふるまう
アスペルガー症候群は、ヒトとのかかわり方で4つに分類されるらしい。
受動型・積極奇異型・孤立型・形式ばった大仰な型 の4つ
母の外での様子は受動型アスペルガーの特徴に一致する。
家庭内、または教会の距離が近い人の間では積極奇異型のようにふるまう
受動型アスペルガー の特徴
・何をするのも受け身的
・感情表現が苦手(表情が乏しい)
いつもニコニコしていることも
・困っているけどわかってもらえない
・自分の気持ちを伝えられない
・自分から人と関わるのが苦手
・外へ出かけるのは好きではない
・人との距離感が遠い
・「NO」と言えず、ヒトの言いなりになりやすい
積極奇異型の特徴
・感情表現が大げさ(母の場合はげらげら笑いか無表情な怒り、悲しい、寂しいなどの感情表現はほとんどない)
・カッとしやすい
・自分が興味のあることに積極的(母の場合、教会活動)
・自分の興味がないことには無関心 (家族の感情や事情には無関心)
・自己中心的に見える
・協力や妥協は苦手
・攻撃的・衝動的な行動が多い
・行動力がある(母の場合、教会に関することにおいて)
・思ったことを一方的に言ってしまう
・人との距離感が近いといわれる (母の場合、子どもを独立した人格ではなく自分の所有物をのように扱う。 教会でも親しくなった年下の女性には侵害的な態度をとっていたと推測される。)
参考 「よくわかる女性のアスペルガー症候群」 司馬理英子 より
母はどの型に分類されるというより、場面に応じて母なりのサバイバル戦略をとっているのではないかと思う。
外ではニコニコして受け身的に振る舞い、「そうね」といったり、同意するような相槌をうつ。
けれど内容がわかって同意しているようではないようで、帰ってきてから悪口を言うところを見ると無理して合わせているらしい。
外ではともかく同意しておけばよいと考えているようだ。
家では、私は母に同意されたり、相槌を打ってもらったことはない。
ほぼ全否定、こちらの方が母の本音に近いと思う。
例外的にそうよそうよと同意するのは、誰かの否定や批判、悪口などを言った時である。
(これは私の性格形成にものすごく悪影響を与えたが、この部分についてはまた別記事で書くことにする。)
知らない場所でおどおどする母
母と一緒に暮らし始めて、手続きのために役所や郵便局、銀行などに行くことが何回かあった。
そういう場所で母はかなり緊張するようだ。
借りてきた猫のようにおとなしく、ハイハイと物わかりが良い態度をとっているが、実はよくわかっていないことも多い。
これは想像だが、そういう場所で頓珍漢な受け答えをしてトラウマになった経験があると思う。
今でこそ役所や銀行や郵便局もサービス精神で応対してくれる場所だが、昔は職員が上から目線で威張っている場所だったので、嫌な記憶があるのではないかと思う。
ある時、母と郵便局に何らかの手続きで行った時のことである。
書類を提出して母一人が窓口にいるときに、わざわざ奥から出てきて母にあれこれ指摘して威張り散らす中年男性の職員がいた。
私は別の要件で手が離せなかったのですぐに傍には行けなかった。
終わり次第、私が行ってその男性職員を睨みつけた。
私の対応をしてくれていた若い方の男性職員さんが空気を読んでフォローにはいり、なんだかんだとイチャモンつけていた中年男性は奥に引っ込んでいった。
母の対応で私は困り果てていた時期だったが、それとこれは別の問題だ。
ストレスは弱い方へ
世の中には、自分より弱そうな相手を見て威嚇したり、嫌がらせをする人間がいる。
その人も何らかのストレスを抱えていて、八つ当たりしているだけと思う。
けれど、逆らえそうもない弱い立場の人を狙ってするので、受けた方はかなりダメージをうける。
そのストレスはさらに弱い方へ、逃れられない方へとはけ口を求めることもある。
自分が何にストレスを感じたかもよく認識しないまま、母はストレスを家族に向ける。
一番ストレスを向けやすいのは、逃れられない立場にいる子どもだ。
親に養ってもらわなければ生きていけない子どもは、どんなに理不尽であってもそれを受け入れることになってしまう。
虐待を受けた子どもが、大人や社会や世の中に嫌悪感や不信感を抱きがちになるのは当然のことだろう。
そういう経験を嫌というほどしてきているのだから。
私は可愛げのない、生意気な子どもだった。
親が外の世界で目上の人にはヘコヘコとご機嫌取りをして、家の中で子どもに偉そうに威張り散らすのが、本当に嫌で嫌でたまらなくて許せなかった。
社会的な場面で、形式ばったり敵対的なコミュニケーションではなく、思いやりと温かい態度に満ちたコミュニケーションを両親はできなかった。
経験できなかったこともあるだろうし、戦争、戦争時の教育、親や社会の大人たちのとの関わりでのトラウマもあると思う。
戦時中の教育は、平和的で調和的なコミュニケーションは必要ではなく、どちらかと言えば軟弱であるという認識でしかなかったと想像する。
発達障害の親と子の苦しさ コミュニケーションの拙さ
コミュニケーションの拙さと過剰適応
私の母親(90歳)は診断こそは受けていないが、発達障害だと思う。
母は頼みごとをすることができない。
私からすると、困っているかなと思うことも何も言ってこない。
考えられる理由は2つ。
1 自分のこと、自分の感情や困りごとをうまく伝えることを学んでおらず、苦手である。
2 自分(母)の考えや思いを、相手(私)も同じように思ったり考えたりしていると思い込んでいる。
2についての詳しい様子は下記の記事で書いた。
母は相手(私)が同じように考えて、感じてすべてわかっているはずなのに、娘(私)は何もしない。
そこから、何もしてくれない意地悪な娘だと考えているようだ。
つまり、頼みごとをしないのは、「全てわかっているはずなのだから、言う必要はない、娘の気がきかないだけだ」という認知になっている可能性がある。
私の方から見れば、状況もわからないし、何をして欲しいのかもわからないから、何もできないだけなのだ。
何も言われないからしないだけで、ただそれだけのことだ。
実家で母と過ごしていた若い頃は、あれこれ顔色を読んで、言われもしないことを先回りして母の願いをかなえていたのだろうと思う。
それはその時の感情に任せて暴言を吐く母親と暮らす家で、私が生きるためのサバイバル戦術であった。
しかしそれは「過剰適応」で、本来の人間関係としてはかなり不適当なものだ。
言われる前にやってしまうことはお互いのためにならない。
母はコミュニケーションをとる必要を学ばず、依存と甘えの塊になり、わがままな言動がエスカレートする。
一方、私は底知れない不安と疲労で心を病んでしまう。
適度な距離感、第3者的な視点が、今の母との暮らしではとても重要だと思っている。
病気が許されない
母は、外でのコミュニケーションも同様にうまくできないと思う。
最近になって、過去の一つの出来事を母の苦手なコミュニケーションの観点から読み解くことができた。
高校時代、友人と街に遊びに行った。
友人と遊びに行くことがほぼ許されなかった私は、珍しく許してもらえたその時が、本当にうれしかった。
小さなお店で飲んだ一杯のクリームソーダがとてもうれしかった。
けれども、その後私はお腹を壊してしまった。
間が悪いことに、通っていた教会付属のガールスカウトの行事、オーバーナイトハイク(夜に山を登り始めて山頂で日の出を迎える)が迫っていた。
山に体調が悪いものが行くことは、同行者に迷惑をかけることになるとわかっていた私は母に「行かない、迷惑をかけることになるから行かない」と何度も言った。
母は全く聞き入れてくれず、お腹を壊すのが悪い、遊びに行くのが悪い、参加しろとヒステリックに言い続けるだけだった。
仕方なく空元気で参加したが、下痢していた私は途中でふらふらになり、歩けなくなってしまった。
同行者に支えてもらい、チョコレートを分けてもらい食べて何とか山頂まで歩くことができたが、迷惑をかけて申し訳ないしとても恥ずかしかった。
母のコミュニケーションの拙さが私を窮地に追い込む
これらの一連の記憶はずっと覚えていたわけではなく、高齢の母と暮らすようになって思い出したことである。
母の言動をほぼ毎日観察できるようになって、母が自分の事情や頼みごとを上手に伝えられないとわかった。
子が体調を崩して申し込みをした行事に参加できないとなった時、普通ならば、
「参加の申し込みをしておきながら大変申し訳ありませんが、子が体調を崩したので今回はお休みします。」というようなコミュニケーションをするだろう。
しかし、母にはそんなやり方ができなかっただろうと気が付いた。
また、一度参加すると決めたものは絶対参加しなければならないと、強く思い込んでいた可能性もある。
体調管理しなかった親が何か言われ、責められるとも、思い込んでのかもしれない。
(母は自分が何か言われて咎められたり、責められりすることを極端に避けたがる。)
そのような要素がいろいろ絡まって、「絶対に行け」と私に冷たく言い放ったと思う。
たいていの場合は丁寧に説明すれば「そうですかお大事に」となると思うのだが、母はそういう経験をしたことがないし、詳細に事情を説明する能力をもっていない。
他にもこれに類したことはことはあったが、覚えているのは高校生以降のことだ。
幼い頃からもいろいろあったはずだと思う。
断片的にうっすらと覚えているものもあるが、それらは極めて少ない。
これらの解離している記憶を思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。
今の私の状態は、とりあえずそんな感じでいいかなと思っている。
ひめゆり平和祈念資料館と対馬丸記念館
本日はいつもとスこち違う内容を
ひめゆり平和祈念資料館へ
沖縄に行ってきた。
子どもが小さい時に何度か行った沖縄、ひめゆりの塔に行きたいと思いながらいけなかった。
太平洋戦争末期に沖縄に米軍が上陸し、激しい戦闘がされるなか、多くの学徒が戦場に動員された。
ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(15~19歳)で、動員された生徒は222名にのぼった。
1945年3月23日の深夜、18名の教師に引率されて南風原の陸軍野戦病院に向かう。
そこは、丘の斜面に掘られた横穴のむき出しの土壁に沿って粗末な二段ベッドがあるだけの施設だった。
不衛生な環境の中で女生徒たちは、看護の他、砲弾の飛び交う中で、水汲み、食料の運搬、伝令、死体埋葬なども行った。
傷病兵は増え、昼夜関係なく働き続けた。
5月、米軍は日本司令部のある首里に迫り、米軍の本土上陸を遅らせるために持久作戦をとり、本島南部に撤退を始める。
病院にも撤退命令が出され、歩ける患者を連れ砲弾の中、無数の死体と重傷者が泥の中をはいずりまわる道を本島南部へ向かった。
沖縄にはガマと呼ばれる自然洞窟があるが、そこには周辺の住民らが避難してきていたが、その住民らを追い出して軍や陸軍病院が入った。
6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が言い渡された。
米軍が迫る中、生徒たちは、自分の判断で行動しなけらばならなくなった。
解散命令から数日間で100名余りが亡くなった。
【公式】ひめゆり平和祈念資料館 / [OFFICIAL] HIMEYURI PEACE MUSEUM
対馬丸記念館
昭和19年(1944年)、疎開する学童らを乗せて沖縄を出港、九州に向かっていた対馬丸が米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
犠牲者はわかっているだけで1484人、このうち800人近くは子どもだった。
助かった生存者には厳しいかん口令がしかれ、事実を話せるようになったのは60年近くたってからだった。
昭和19年当時、戦況を悪化し、7月にはサイパンが陥落した。
次は沖縄での決戦になるとみられ、厳しい食糧事情ののあって国は「足手まとい」になると子ども達の疎開を促していたことが資料からわかっている。
対馬丸記念館 HP
戦争の傷跡
あの戦争から75年、その後の日本は高度経済成長を経験、その後のバブル崩壊、急速に進行する少子高齢化社会を経験している。
戦争が続いていた昭和16年 尋常小学校は国民学校と名を変えた。
「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」
つまり、国民としての基礎的錬成をなし、お国のため、天皇のために身を捧げつ頃が求められた。
常々、私が考えるのは、あの戦争の反省を日本はきちんとしてきただろうかということだ。
「戦争はいけない」と一口に言っても、その詳細について十分に検証がなされてきたのかということだ。
戦争に至った経緯、その後の作戦の責任の所在、民間人、女性、子どもを巻き込んだ戦闘、飢餓、軍内部の私的制裁、などなど。
過去の傷を振り返るのは辛いことだが、現実におきたことを見つめてこそ、過去の傷が癒されるのではないだろうか。
私は今の日本の社会がまだ、世代は変われど、戦争の傷をひきずっているように感じる。
大正12年生まれの父と昭和4年生まれの母は、「働かざる者食うべからず」「欲しがりません、勝つまでは」などと冗談めかして言っていたが、つらかった体験を話すことも、戦争に反対する意志も示したことはなかった。
楽しいはずの青春を丸ごと戦争に奪われてしまったのに。
フラッシュバックと簡易トラウマ処理
過酷な体験の再演
「フラッシュバック」は最近はよく聞くし、自分でも使うことがある。
フラッシュバックは過去の出来事を「再演」「再体験」することで、何年も前に起きた出来事でもまるで「いま」起きているような感覚になることだ。
杉山氏によるとマルトリートメント(不適切な養育)がある家庭で起きていることに以下のものがあるという。
言語的フラッシュバック
親から言われた暴言をまるで親が乗り移ったかのような口調で再演する。
認知的フラッシュバック
親から「おまえは生きている価値もない」と言われ続けてきたせいで、「わたしは生きている価値のない人間だ」という考えが浮かんでしまう。
行動的フラッシュバック
急にキレて暴れたり、人に殴りかかったりする。過去の行動の追体験
生理的フラッシュバック
例えば、首を絞められた経験があると首にあざが浮かんでくることがある等。
参考
これらにはかなり思い当たることがある。
父の怒号はかなりの恐怖を感じるものだったが、おそらく両親の厳しい躾、軍事訓練及び戦争時のフラッシュバックがあったと思う。
母の場合は祖母から受けた冷たい仕打ちや罵り、発達障害ゆえの周囲からのいじめや排除、(これらの背景に戦争の時代)があっただろう。
両親の症状を教育や躾などと思い込んで育った私は、子どもに対する不適切な態度、叩く、暴言を自分で止めることができない時があった。
それはフラッシュバックだったと思う。
教育を学んで10年近く現場にいたのに、自分で自分をコントロールできないことに激しく落ち込み、自分を責めた。
後から子どもに不適切な対応を謝ったりするが、自分に対する不信感や自信のなさはその都度、滓のように積み重なっていっと思う。
同時に親からの過去の暴言の数々「不注意だ、なってない、だめだ、おっちょこちょい、こんなこともできないのか」などのフラッシュバックで、自尊心はほぼなく、何か人の役に立つことがなければ自分の価値などないと思い込んできた。
両親の激しい言動の前に、自分の感情を押し込めて育たざるを得なかった私は、いまだに本当の自分とは何なのか、ありのままの自分とはどういうものかわからないというのが正直なところだ。
複雑性PTSD
私のように幼いころから慢性的なトラウマを抱えてきてPTSDの症状がある場合は、複雑性PTSDという区分になるようだ。(実際に診断されてはいない。)
複雑性PTSDは子ども時代のトラウマの後遺症であることが多いとされる。
複雑性PTSDの症状として、フラッシュバックが多く、絶えず身体に嫌な感じを持っていることが多い。
その不快感を取り除いていくとフラッシュバックも連動して消えていくということだ。
確かに、私自身も呼吸を重視したマインドフルネス瞑想やソマティックエクスペリエンス(1度)受けてから、過去の嫌な記憶がよみがえる事は徐々減ってきた。
ソマティックエクスペリエンシング SE
SE™療法(Somatic Experiencing®)とは | SE Japan
簡易型トラウマ処理
この本の最後に左右交互刺激と呼吸法を組み合わせた簡易型トラウマ処理の方法があるので紹介しておく。
*呼吸は胸郭呼吸
ヨガなどで用いる腹式呼吸ではなく胸郭を広げる呼吸
イメージは地面から「気」を吸い上げて気を頭頂から抜く
1回目 もやもやを感じている部分を特定し両手で左右交互に叩く(タッピング)
20回程度の交互刺激を2~3セット行う。
「少し」という程度でやめる。
これだけでも副作用としてトラウマ体験を夢に見たり、不快なフラッシュバックが続くことがあるが、これは回復が進んでいるという証拠。
2回目以降(2週間後くらい)
4セット法によるトラウマ処理
1 胸の下の両側の肋骨の下を両手で左右交互に20回~30回パタパタとタッピング
その後、胸郭呼吸
2 鎖骨の下で20回の交互刺激と胸郭呼吸
3 首の後ろを20回~30回たたいて胸郭呼吸
4 頭のてっぺんから下に向けてなでおろす。左右交互に20回くらい 胸郭呼吸
*2と4は左右お手を入れ替えてやった方が有効。
*不快な部位が残っている場合は、その部位のあたりを2セットほど行う。
*この4セットを2週間おきに4~5回やるとフラッシュバックは底をついてくる(減少する)
*短時間で少しずつ
トラウマ処理 私の場合
今から1年前に自分の症状は発達期にトラウマがあった複雑性PTSDなのではと気づいた。
その頃はトラウマ記憶が激しく噴出して感情がひどく不安定になっていた。
トラウマやPTSDのついての理解が進むと、
今の自分の状態(症状)が自分のせいではなく,
ヒトという動物が持っている危険に対する自然な反応の結果だとわかってくる。
また、突然浮かんでくる自分の思いや考えがフラッシュバックである可能性にも気づく。
上の簡易型トラウマ処理は、何度かやってみたが、やった後にとてもすっきりする感じがある。
経済的負担もないので、2週間に一度(忘れそうだが)やってみる価値はあると思う。
ゆっくりと進むペースで、少しずつを忘れずに。
トラウマは「脳」と「体」両方への働きかけで
理性脳が情動脳をコントロールしにくい
トラウマは、思考などにかかわる「理性脳」が自律神経系と深く関連する「情動脳」を十分にコントロールできなくなっている状態ととらえることができます。
心理療法は主に理性脳の働きを強化することで、脳の働きのバランスを取り戻す方法です。
一方、情動脳そのものの働きを調整するには身体的な活動を通した働きかけが有用です。
心は、脳内の活動だけで成り立つものではありません。脳と身体のつながりも心の一部です。体の状態を整えていくことも大切です。
太字はブログ主
危険な状況に置かれたとき、こうだからこうしようなど理性脳(左脳)で判断していると間に合わないので、情動脳(右脳)が働き、身体的反応が起きるように仕組まれている。
この働きは危険な状況の時にヒトの命を守るための働きをしている。
トラウマがあると、脅威に対する感覚が敏感になり、通常の人には脅威のない事柄でも、危険や脅威を感じてしまうということが起きる。
危険や脅威を感じることが多くなると、普通であるはずの生活が非常時モードの連続になり、理性脳が情動脳の興奮を制御しにくくなってしまう。
情動脳の調節は身体活動で
身体的活動で情動脳の働きを調節していくことが可能である。
*体が自然治癒力を引き出す
身体は心の一部、体の状態を安定させることが、心の状態の改善にもつながる。
生活リズムを整える、日光を浴びる、しっかり食事をする、お風呂でリラックスする、適度な運動などなど、自然治癒力を高める効果がある。
*体のエネルギー(気)流れを整える
トラウマはエネルギーの流れを滞らせたり、流れの向きを変えたりすることもある。
タッピングは流れを整える効果がある。
http://www.jatft.org/stress-caring.html
*自律神経の調整
呼吸を意識する マインドフルネス瞑想など
*心地よいと感じることを増やす
各種セラピーやヨガ、ダンス、歌、アートなどの各種の趣味やペットとの交流等、
詳細を知りたい方は下記の本の第5章を上記のもの以外も紹介されている。
少しづつ進む
トラウマの場合、体への働きかけはとても有用だと思う。
それまでは、同じところをぐるぐると周回していたような状態だったが、体への取り組みをはじめたら回復のステップを上がっていることを実感した。
けれど、注意することは少しずつすすむこと。
身体に閉じ込められていた記憶が出てくることがあるので、一度に色々やらない、無理をしない等、スモールステップを踏んでいくことが大事だと思う。
自分に合いそうな療法&専門家を探し、回復の道を伴走してもらうことも、選択肢の一つだと思う。
身体への取り組み、私の場合
私の場合は、もともと身体を動かすことが好きだった(運動神経は良いほうではなくかなりどんくさい)ので、若い頃は各種スポーツ、トレッキング、キャンプなどを楽しんできた。50代を過ぎてからはガーデニングを始めた。
時には身体を動かしすぎて、酷使するような時も多かった。
自分の身体と感情のバランスをとることがかなり不得手だったように思うが、それもPTSDの症状の現れだったと思う。
若い頃は、瞑想やヨガのようなゆっくりとしたものはどちらかといえば苦手だった。
自分に向き合って身体に閉じ込めてきた不快な部分(トラウマ記憶)を感じてしまうのを、無意識に回避していたのだと思う。
トラウマを知り、回復の手段として、ヨガ(ゆったりしたもの・陰ヨガ)や瞑想(マインドフルネス)は短い時間から始めた。
不快を感じたら止めて、無理をしないようにした。
私の場合は、ヨガは不快な感覚がよみがえることが多かったので、3分くらいの短いマインドフルネス瞑想の方が続けられた。
最近は動画でいろいろなヨガや瞑想があるので、自分に合いそうなものを選んで自宅で取り組むにはとても便利だ。
私の場合、教室やサークルに通うとなると場所や人に対して緊張してリラックスできないので、自宅が最良だった。
安心と安全を感じる場所で行うこと、無理をしないことが、絶対条件だと思う。
また、上であげたタッピングは、効果が確認された療法であり副作用も少ないようだ。
動画を見ながら少しやってみたが、効果のほどはまだよくわからない。
*参考になりそうな記事を見つけたのではっておく。
トラウマ的絆 親子の傷つき
親も子も心が傷ついている
令和2年の初めの記事もこの本からの引用で始める。
友田 親も子も心が傷ついて、全身でSOSを発しているー。これはいったいどういうことなのだろうか、と最初は思いました。それにどの親子も判で押したように同じような症状が現れているのです。
杉山 そうですね。受診に来る親子の関係には、「パターン」があるように感じますね。親の話を聞き、そのまた親の世代までさかのぼって「育ち」の歴史を見ていくと、多くの場合、暴力やネグレクトが受け継がれてきているんです。
友田 杉山先生は以前から、「親子並行治療」の重要性を訴えていらっしゃいますね。それにわたしも強く共感し、子どもの診療を行う際は、親だけでなく祖父母世代にまでさかのぼって家族の世代間ヒストリーを丁寧に聞き取るようにしています。想像以上にマルトリートメントの経験者が多いのは事実です。
杉山 子どもだけでなく親の側も、自らの親との歪んだ関係から生じた思いトラウマを抱えているんですね。
友田 臨床の現場では、「親子」しか見ていませんが、同じようなトラウマを抱え、生きづらさを感じたまま社会生活を送っている人たちは、相当数いるのではないでしょうか。
親の世代もまたその親に受けたマルトリートメントで傷ついている。
こういう世代間連鎖というか、負の流れみたいなものに20代後半ごろから薄々気が付いていたような気がする。
けれど、それを言葉にして説明する概念をまるで持っていなかった。
母方の祖母は表情に乏しく、冷たい印象のする人だった。
祖父には、たくさん遊んでもらった記憶があるが、祖母には優しい言葉一つかけてもらった記憶もない。
戦争とトラウマ
杉山 今の子どもたちのさらに親世代の、さらに親世代というと「団塊の世代」と重なります。最近「老人暴力」が問題になっていますが、興味深いことに、10年から20年前ぐらいには、中年の暴力が問題になっていたんです。もう少し前になると、若者が結構暴力的だということになっていて、その前というと、1970年代安保などで学生がストリートファイトをしていた時代になる。つまり団塊世代の一部はずっと荒れているという見方ができるんです。
(中略)
では、団塊の世代はなぜこんなに荒れているんだろうと考えると「戦争」に行き着く。
私たちの父親世代は、戦争に行っています。戦争のトラウマを抱えた親に育てられた結果、様々な「問題」を親から引き継いでしまった可能性があります。
友田 もちろんすべての人ではりませんが、団塊世代の一部は、心が傷ついた親たちからマルトリートメントを受けて育ち、今度は、それが彼らのトラウマとなって表出しているというわけですね。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念が作られるきかっけにになったのは、戦争である。
私がPTSDを知ったのは、湾岸戦争(1990年)の帰還兵の精神状態に関する記事や報道に触れた時だった。
その時、太平洋戦争末期に戦争に行った父、戦争中に子ども~思春期を過ごした両親、戦争に向かう時期、戦争の真っただ中を過ごした祖父母のPTSDはいったいどうなっているのか・・・・とその時、疑問に思った。
その時の疑問は自分の中でくすぶり続けていたが、30年近く経過してやっと、答えを見つけることができた。
両親はやはり戦争によるトラウマを負っていた。おそらく父方、母方の祖父母も
それをやっと精神科医が公式に発言してくれた。
トラウマ的絆
友田 「80年代から90年代がベトナム戦争や湾岸戦争のトラウマを抱えた人たちが父親となり、家庭の中でいつも暴力の火種を抱えていたということでしょうか。」
杉山 「暴力というのは何もないところからは生まれません。必ず「火元」があります。」
友田「そうやって親から暴力を受けて育った「被害者」は、今度は自分が加害者となって弱い立場の者たちに暴力をふるうようになってしまう。もちろん、すべての人が負の連鎖を起こすわけではありません。「自分は子どもにはそういうことはしない」と強い決意をもって子育てしている人もいます。
ですが、トラウマの傷というのは根深くて、思わぬときに、過去に親から受けた仕打ちがよみがえって再トラウマ化する。子どもに手は上げないまでも、とっさにひどい暴言が口をついてしまったりすることがありますね。
杉山 こうした負のつながりを「トラウマティックボンディング」といいます。日本語にすると「トラウマ的絆」になるでしょうか。
本来、子どもにとって親などの養育者のそばは、一番リラックスできて安心できる場所です。ところが、養育者の言動や感情が定まらずにころころ変わったり、場合によってはたたかれたり、無視されたりということが続くと当然子どもh安心できません。常に「戦闘モード」に入ってしまう。
いつ怒鳴られるんだろう、いつ殴られるんだろうかと、始終緊張しどおしで心が休まらない。そして恐れていたとおり養育者にキレられたちり、たたかかれたりする。
そんな体験が日々積み重なっていくと、親子の愛着関係が歪んだまま形成されてしまうばかりか、子どもにとっては「この負のつながり」が生きていく上での基盤になってしまうんです。
友田 そうなると、自分に対する認知も歪んでしまいますね。「おまえはダメな子だ」「生まれてこなければよかった」などと言われて育っていくわけですから「、自尊心を保つことができない。
自尊心が低いと、学校生活などでいじめや困難なことにあったときにも、それを跳ね返せなくなります。
「自分はどうして世の中で何かを成し遂げられないのか?」
「つらいことを乗り越えることができないのか?」
親や親類に立派な人になれと偉人伝をたくさん読まされたが、到底そんな人のようになれず、目の前の仕事さえ完遂することができなかった。
親にされたように自分自身をダメな存在とみなし、自分を卑下し、自己憐憫の感情に飲み込まれたりした。
しかし、それらのことは、自分のせいではなかった。
私に暴言を浴びせ続けた両親のせいでもない。
両親もまた傷ついていたし、そのまた両親(祖父母)も傷ついてきたと思う。
トラウマ的絆を受け継いできた私に必要なのは、、もっともっと頑張り続けることではなく、自分の傷を癒し、自分の現実をそのまま受け入れることだった。
犯人捜しはもう終わりにしようと思う。
トラウマを癒すことを考えよう。
温かく心安らぐ絆を築くことを考えたい。
受け継いできたトラウマは重傷で、すぐには癒えないかもしれない。
回復と後戻りを繰り返すだろう。
それでいいんじゃないだろうか。