発達障害の親と子の苦しさ コミュニケーションの拙さ
コミュニケーションの拙さと過剰適応
私の母親(90歳)は診断こそは受けていないが、発達障害だと思う。
母は頼みごとをすることができない。
私からすると、困っているかなと思うことも何も言ってこない。
考えられる理由は2つ。
1 自分のこと、自分の感情や困りごとをうまく伝えることを学んでおらず、苦手である。
2 自分(母)の考えや思いを、相手(私)も同じように思ったり考えたりしていると思い込んでいる。
2についての詳しい様子は下記の記事で書いた。
母は相手(私)が同じように考えて、感じてすべてわかっているはずなのに、娘(私)は何もしない。
そこから、何もしてくれない意地悪な娘だと考えているようだ。
つまり、頼みごとをしないのは、「全てわかっているはずなのだから、言う必要はない、娘の気がきかないだけだ」という認知になっている可能性がある。
私の方から見れば、状況もわからないし、何をして欲しいのかもわからないから、何もできないだけなのだ。
何も言われないからしないだけで、ただそれだけのことだ。
実家で母と過ごしていた若い頃は、あれこれ顔色を読んで、言われもしないことを先回りして母の願いをかなえていたのだろうと思う。
それはその時の感情に任せて暴言を吐く母親と暮らす家で、私が生きるためのサバイバル戦術であった。
しかしそれは「過剰適応」で、本来の人間関係としてはかなり不適当なものだ。
言われる前にやってしまうことはお互いのためにならない。
母はコミュニケーションをとる必要を学ばず、依存と甘えの塊になり、わがままな言動がエスカレートする。
一方、私は底知れない不安と疲労で心を病んでしまう。
適度な距離感、第3者的な視点が、今の母との暮らしではとても重要だと思っている。
病気が許されない
母は、外でのコミュニケーションも同様にうまくできないと思う。
最近になって、過去の一つの出来事を母の苦手なコミュニケーションの観点から読み解くことができた。
高校時代、友人と街に遊びに行った。
友人と遊びに行くことがほぼ許されなかった私は、珍しく許してもらえたその時が、本当にうれしかった。
小さなお店で飲んだ一杯のクリームソーダがとてもうれしかった。
けれども、その後私はお腹を壊してしまった。
間が悪いことに、通っていた教会付属のガールスカウトの行事、オーバーナイトハイク(夜に山を登り始めて山頂で日の出を迎える)が迫っていた。
山に体調が悪いものが行くことは、同行者に迷惑をかけることになるとわかっていた私は母に「行かない、迷惑をかけることになるから行かない」と何度も言った。
母は全く聞き入れてくれず、お腹を壊すのが悪い、遊びに行くのが悪い、参加しろとヒステリックに言い続けるだけだった。
仕方なく空元気で参加したが、下痢していた私は途中でふらふらになり、歩けなくなってしまった。
同行者に支えてもらい、チョコレートを分けてもらい食べて何とか山頂まで歩くことができたが、迷惑をかけて申し訳ないしとても恥ずかしかった。
母のコミュニケーションの拙さが私を窮地に追い込む
これらの一連の記憶はずっと覚えていたわけではなく、高齢の母と暮らすようになって思い出したことである。
母の言動をほぼ毎日観察できるようになって、母が自分の事情や頼みごとを上手に伝えられないとわかった。
子が体調を崩して申し込みをした行事に参加できないとなった時、普通ならば、
「参加の申し込みをしておきながら大変申し訳ありませんが、子が体調を崩したので今回はお休みします。」というようなコミュニケーションをするだろう。
しかし、母にはそんなやり方ができなかっただろうと気が付いた。
また、一度参加すると決めたものは絶対参加しなければならないと、強く思い込んでいた可能性もある。
体調管理しなかった親が何か言われ、責められるとも、思い込んでのかもしれない。
(母は自分が何か言われて咎められたり、責められりすることを極端に避けたがる。)
そのような要素がいろいろ絡まって、「絶対に行け」と私に冷たく言い放ったと思う。
たいていの場合は丁寧に説明すれば「そうですかお大事に」となると思うのだが、母はそういう経験をしたことがないし、詳細に事情を説明する能力をもっていない。
他にもこれに類したことはことはあったが、覚えているのは高校生以降のことだ。
幼い頃からもいろいろあったはずだと思う。
断片的にうっすらと覚えているものもあるが、それらは極めて少ない。
これらの解離している記憶を思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。
今の私の状態は、とりあえずそんな感じでいいかなと思っている。