毒親(発達障害)と生きる

共感・肯定ゼロ 否定と操縦の子育てからの回復

ひめゆり平和祈念資料館と対馬丸記念館

 

 本日はいつもとスこち違う内容を

ひめゆり平和祈念資料館へ

沖縄に行ってきた。

子どもが小さい時に何度か行った沖縄、ひめゆりの塔に行きたいと思いながらいけなかった。

太平洋戦争末期に沖縄に米軍が上陸し、激しい戦闘がされるなか、多くの学徒が戦場に動員された。

ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(15~19歳)で、動員された生徒は222名にのぼった。

1945年3月23日の深夜、18名の教師に引率されて南風原の陸軍野戦病院に向かう。

そこは、丘の斜面に掘られた横穴のむき出しの土壁に沿って粗末な二段ベッドがあるだけの施設だった。

不衛生な環境の中で女生徒たちは、看護の他、砲弾の飛び交う中で、水汲み、食料の運搬、伝令、死体埋葬なども行った。

傷病兵は増え、昼夜関係なく働き続けた。

5月、米軍は日本司令部のある首里に迫り、米軍の本土上陸を遅らせるために持久作戦をとり、本島南部に撤退を始める。

病院にも撤退命令が出され、歩ける患者を連れ砲弾の中、無数の死体と重傷者が泥の中をはいずりまわる道を本島南部へ向かった。

沖縄にはガマと呼ばれる自然洞窟があるが、そこには周辺の住民らが避難してきていたが、その住民らを追い出して軍や陸軍病院が入った。

6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が言い渡された。

米軍が迫る中、生徒たちは、自分の判断で行動しなけらばならなくなった。

解散命令から数日間で100名余りが亡くなった。

 

【公式】ひめゆり平和祈念資料館 / [OFFICIAL] HIMEYURI PEACE MUSEUM

 

対馬丸記念館

昭和19年(1944年)、疎開する学童らを乗せて沖縄を出港、九州に向かっていた対馬丸が米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。

犠牲者はわかっているだけで1484人、このうち800人近くは子どもだった。

助かった生存者には厳しいかん口令がしかれ、事実を話せるようになったのは60年近くたってからだった。

 昭和19年当時、戦況を悪化し、7月にはサイパンが陥落した。

次は沖縄での決戦になるとみられ、厳しい食糧事情ののあって国は「足手まとい」になると子ども達の疎開を促していたことが資料からわかっている。

 

www3.nhk.or.jp

 

対馬丸記念館 HP

http://tsushimamaru.or.jp/

 

戦争の傷跡 

あの戦争から75年、その後の日本は高度経済成長を経験、その後のバブル崩壊、急速に進行する少子高齢化社会を経験している。

戦争が続いていた昭和16年 尋常小学校国民学校と名を変えた。

「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」

つまり、国民としての基礎的錬成をなし、お国のため、天皇のために身を捧げつ頃が求められた。

 

常々、私が考えるのは、あの戦争の反省を日本はきちんとしてきただろうかということだ。

「戦争はいけない」と一口に言っても、その詳細について十分に検証がなされてきたのかということだ。

戦争に至った経緯、その後の作戦の責任の所在、民間人、女性、子どもを巻き込んだ戦闘、飢餓、軍内部の私的制裁、などなど。

過去の傷を振り返るのは辛いことだが、現実におきたことを見つめてこそ、過去の傷が癒されるのではないだろうか。

私は今の日本の社会がまだ、世代は変われど、戦争の傷をひきずっているように感じる。

大正12年生まれの父と昭和4年生まれの母は、「働かざる者食うべからず」「欲しがりません、勝つまでは」などと冗談めかして言っていたが、つらかった体験を話すことも、戦争に反対する意志も示したことはなかった。

楽しいはずの青春を丸ごと戦争に奪われてしまったのに。

 

www.pcf.city.hiroshima.jp

 

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