「過剰適応」の設定をOFFにする。
過剰適応とは
真面目で何事も頑張り、几帳面にやろうとする性格的な特徴
自分の本心をなかなか言えず、頼まれると断れないところがある。
小学生の「良い子」を中学時代・高校時代にそのまま継続させるような子ども
参考 「感情の正体」 渡辺弥生 ちくま新書
私は過剰適応を絵に描いたような子どもだったと思う。
大人になってすら過剰適応の特徴はそのままだった。
もちろん、「良い子」の顔だけではなくネガティブな面もあったけれど
しかし「良い子」でいなければ、家庭に居場所はなかった。
家庭という閉鎖空間で生き抜くために、私にとって「良い子」はサバイバル手段だった。
過剰適応の特徴について、上の本から引用する。
他人の気持ちが敏感によくわかってしまい、自分に期待されることを感じとって従わねばならないと思い込みます。「友達が顔を曇らせたのは、きっと私にこうしてほしいんだろう。それじゃあ、大変だけれどやってあげなきゃ・・・・」といった感じです。
思いやりのある人は、多かれ少なかれこういう傾向がありますが、こうした態度があまりにも強すぎると心理的な問題を生じる危険性があります。思いやり予算でなく一方的な思い込みだったり、そこから被害者意識が芽生えるかもしれないからです。過剰適応は、適応というよりはむしろ不適応になる危険性があります。
友達と仲良くしなければならない、間違いをおかしてはならないという呪縛から解放されなくてはなりません。失敗から学んでいけばいいとか、そもそも違う人間だから仲良くすることは難しい、と考え方を変えていく必要があります。
「過剰適応」の設定をOFFにする。
大正生まれの私の父は「優等生・劣等生」という言葉をよく使う人だった。
何かの失敗や間違いをすると烈火のごとく怒った後、くどくど長時間の説教をする人だった。
そのやり方は、父が受けてきた家庭のしつけと社会的な教育のやり方を踏襲したものだろう。
失敗から学んで次はこうしてみようとか、どこで失敗したのか一緒に考えてみる等はあり得なかった。
軍人だった父のやり方は教育ではなく命令であり、指図であった。
くどくどした長時間の説教は今でいえば、パワハラである。
軍隊教育を受けてきた父は、そういうやり方しか知らなかったのだと思う。
そんな家庭に育って過剰適応にならないというのは、相当難しい事である。
過剰適応しないという選択をすれば、素行不良になり、当時はグレて長いスカートはいてカバンぺったんこにして、化粧してタバコ吸う、そういう仲間とつるむかだが、軍人だった父に対抗して実行するには命がけだっただろう。
アラカンの今でも、かなり意識的でいないといつの間にか「過剰適応」的な思考と言動に陥ってしまう。
いわば、私の言動・思考のオートモード設定は「過剰適応」に設定されてしまっているのだろう。
意識的にオートモード設定を切って、マニュアル操作にする習慣を心がけている。
私のマニュアル操作の一例
*失敗はよくあることでそこから学ぶ
*頼まれないことは基本的にやらない
(例外 自分のやりたいことならやる時もある)
*人はそれぞれ、百人百様、自分にとって価値あることが人にとっても価値があることと限らない。
*他人に良い人に思ってもらえなくても気にしない。