親と子の心理的境界と侵襲について考える
心理学においての侵襲
手術の侵襲によるストレスが原因でうつ病につなばった名倉さん(ネプチューン)のことは何となく耳にしていると思う。
侵襲とは、医学的にはよく使われる言葉で、体には内部環境を一手に保とうとする恒常性があり、その恒常性を乱す可能性がある刺激をさす。
具体的には手術、注射、投薬などの医療行為や外傷や感染症などである。
では、心理学的に侵襲とはどういうことなのか。
その人のパーソナルな領域(自尊心、傷つき、などなど)に配慮なしに入り込んでしまようことをさす。
参考
心理学で使う【侵襲性】とはどういう意味ですか?どのような状況で使うのか具体... - Yahoo!知恵袋
kokoroshikaku.cocolog-nifty.com
親の過干渉は侵襲
育つ過程で親の態度で一番戸惑ったのが、二面性だった。
それと同じくらい嫌だったのは、過干渉だ。
私が1歳ごろの娘を連れて実家に帰省した時に、気が付いた。
母は娘におもちゃの扱い方を教えてその通りにやらせようとする。
これではまるでロボットアームだ。
子どもが遊んでいるのではなく、母が子どもを通して遊んでいる。
父は庭で、ほんの少しの段差も「危ないから行ってはいけない」と何度も繰り返す。
初孫が可愛くて目に入れても痛くない状態ではあったが、ちょっと行き過ぎている。
子どもは失敗を繰り返しながら学ぶ。
失敗という体験を事前に摘み取ってしまえば、子どもは経験することができない。
私が娘を自由に遊ばせていると、「全然面倒を見ない」という。
「見ているよ、本当に危ない時だけ手を出すから大丈夫。」と心の中では思ったが、説明しても理解してもらえるとは思えなかった。
この時にはっきりと自覚できなかったが、私は両親にかなり過干渉に育てられた。
(行動面には過干渉であったが、感情や心理的な面ではほぼネグレクトにに近かった。)
最大の過干渉の思い出は、小学校の卒業式での送辞を読むことになり、父親が書いてしまったことである。
下書きを何度も書き直しを命じられ、ダメだしされ、挙句の果てに父が書いて清書もしてしまったのである。
父は、自分が勝手に思い描いた計画通りに子どもが行動することを要求し、失敗すると責めた。
今思えば、戦時中の大本営のようである。
母は、父のように自分の要求を口にすることはない。
顔色と感情的な態度で私を操作する。
そうして、自分の手足のように私を扱う。
父の過干渉は家制度や軍隊教育に由来するものと思う。
母の過干渉は子や他者との境界を理解していないためと女は男に従う、子どもは大人に従うという習慣に由来すると思う。
両親の育った時代は、子どもが親の言うことを聞くのは当たり前、
個を大切にするより集団を優先する国家的、軍隊主義的教育もあった。
さらに母は発達障害の特徴もあり、自分と他者との関係性を理解することが苦手である。
二人とも子どもが独自の個性を持った存在で、その個性や意思を尊重しようという認識はなかった。
親の様々な要求やアドバイスが、時代や子どもの適性や能力にあって、子どもの感情や欲求を考慮したものであるならば、それは子どもの生きる力になることもある。
けれど、親の一方的で狭量な思い込みによる過ぎた干渉は、子どもが自立して生き抜く力を大きくそぐ結果となる。
垣根が壊れた荒れた庭のようだった私
ガーデニングが趣味なので、過去の自分の心の状態を庭に例えてみる。
親の過干渉・叱責・罵り・暴言などで絶え間なく侵襲されていた私は、垣根がほぼない荒れた庭のようだった。
なんとか自分を保とうと垣根を細々と修復するものの、勝手知った親は貧弱な垣根を乗り越え、なぎ倒し、この木はなかなか大きくならない、この花は見栄えが悪い、この草は見どころも何もないとあらを探し、庭の土を踏みつけて回る。
愛情(愛着)という土壌栄養が行き渡らない庭でも、やっと何とか実を数個、花を少し咲かせても、勝手にもいで持って行き、親の手柄のようにする。
そうしてもっと花を咲かせろ、実を生らせろと言う。
その要求はとどまるところを知らない。
(まるで愛に飢えた子どものようだ)
私はどうせ頑張っても報われないと学習し、庭は荒れ放題になる。
そうして、いつしか親のように人の庭に入り込んでしまったこともあった。
侵襲を頻繁に繰り返されると、他者との境界がわからなくなる。
両親もそうやって育ち、そういう生き方をしてきたのだろう。
私は自分自身がわからないところがあるが、両親もまた自分が何者であるのか、
わかってはいなかったと思う。