私は母の道具?便利な人?
私は母の道具?
母と暮らしの中で自分が道具もしくは母の手足のように扱われていると感じることが頻繁にあった。
病院に車で連れて行ってくれと頼まれたが、何時に行くからなどの連絡をなかなかしてこない。
どうするのかな~と待っていると、
「何時に行きますか?」とメールがきた。
『自分が何時に行きたいから頼む』という感じになることを普通は予想する。
私が主体的・能動的にに病院に行く感じになった文面で面食らってしまった。
いわゆる病院がというところが好きではない私はかなり怒ってしまった。
母にこのメールの内容につてに怒っていると伝えたが、怒る私が悪いという態度をとられた。
今は、なぜ私が怒っているのかまるで分らなかったのだろうと冷静に思える。
母は頼みごとをうまく伝えられない
或る時、母の妹(私にとっては叔母)が遠方からやってくることになった。
メールで「○○おばさんが何月何日に来る」
と言ってきた。
それだけで何の説明もないので、なんと返答してよいかわからない。
そんな感じのメールがもう一度来た。
おそらく何かを頼みたいのだろうと思うが、その短いメールだけでは何とも・・という感じで放置した。
母は短い一言メールで、私がすべて理解し、全て良いようにやってもらえると考えているようだった。
自分と他人の境界がない? 母の場合
母は、自分が聞いた事や考えた事を私が同じように知ってていると思っているようだ。
病院から帰った時に、先生になんと言われたのか、どういう診断が出たのかを聞いても、自分の思い込みを言うだけで、全く会話にならない。
病院や教会等の外ではそれなりに受け答えしているようだが、私に対しては気が緩むせいか、自分について全てわかっていると思い込んでいるせいか、全く会話にならない。医者や体の状況に対する思い込みをただ話し続ける。
このような母の言動を私は自分が母の道具もしくは手足のように扱われている
と感じてきた。
この感覚は母の発達障害の特徴を的確にとらえたものかもしれない。
「自閉っこ、こういうふうにできています。」 ニキ・リンコ 藤家寛子 から
浅見さん(花風社 代表取締役)
子どもが自閉で親が定型発達の場合、愛着形成はしにくいことに親御さんが心を痛めたりします。「レイルマン」という本を読んだんですけど、自閉のお子さんのお母さまである著者の方が、「まずは便利な人になる。それから大事な人になる」みたいなことが書いていて、できた方だなあと思たんですが、そういう心の広さはだれもが持っているわけではないでしょうし、 一般的に言ってやはり自閉症スペクトラムのお子さんを育てる親御さんたちはさみしい思いをすることが多いと思うんです。「親が親だとわかっていないんじゃないか」と訴える親御さんの声もあります。
まず訊きたいのは、小さい頃ご両親の姿がどのように見えていたか、なんですが。
ニキさん
親のことは好きでした。でも特別な存在だとは気づいていませんでした。
藤家さん
私は、親は「私の親という役をやっている人」だと思っていました。
いわゆる定型発達で、一般的な人たちがそれぞれの年齢で持つ家族にもつ愛情とは異なっているようだ。
この本の前半の身体感覚のところで、ニキさんは傘をさしているとどこからが腕でどこからか傘かわからなくなるというのもあった。
また、家に帰ると親がいて、学校に行くとクラスメイトがいる、クラスメイトとは教室にいるもので、「まさか一人一人におうちがあって、そこから通ってきているとは思わなかった」ともある。
これらのことから考えると、母は私のことを母の一部=備品ととらえている可能性がある。
図で表してみるとこんな感じになるか
定型発達の毒親でも子どもを自分の所有物のように思い通りにするが、母の場合は文字通り、額面通りに下の図のように思っているかもしれない。
私が考える母と私
認知症でいろいろなことを忘れてしまっても、人生のある一部分の記憶を持っているという。
その人が子どもを産んだ経験があると、その時の記憶は鮮明に保持していることも多いと聞いた事がある。
アスペルガー症候群の人は一度思い込むと、その思い込みをなかなか変えられないところがあるらしい。
自分の身体から出たもの(子ども)という記憶が強く刻印され、自分の一部と思い続けているということがあるかもしれない。