毒親(発達障害)と生きる

共感・肯定ゼロ 否定と操縦の子育てからの回復

暴言・パワハラ・モラハラ・いじめ満載の家庭と戦争のトラウマ

 

暴言はしつけ

私の父は大正12年生まれ、軍事教官の父と主婦の母のもとに生まれた。

母は昭和4年生まれ、軍人(陸軍)の父と主婦の母のもとに当時、日本の支配下にあった朝鮮半島で生まれた。

 

父は尋常小学校を卒業するころに、海上での軍事教練中に父(私にとっての祖父)を亡くしている。

2つ上の姉がいたが、あの時代のことであるから、一家の大黒柱は父ということにならざるを得なかった。

お金のかからない陸軍幼年学校に父は進学した。

父が怒鳴り声と共に成長しただろうことは火を見るより明らかである。

 

父は何か不都合なことや母の言動に不満があると、大声で怒鳴りつけ責めることが多かった。

感情にまかせて怒鳴ってしまうが、母も子どもも怯えて何の反応もできず、凍り付いてしまっていることに、どこかで気づいたかもしれない。

 

私が成人する頃には怒鳴ることはほとんどなくなっていたが、何か家族に問題ありと認識すると、ねちねちと説教をしはじめ、自分の思う脚本通りに相手が行動すると言わせるまで決して納得しなかった。

自分のやり方を家族に押し付けるその強引な姿勢は、家父長制や男尊女卑という明治(江戸期後半?)以降の家族像の延長にあり、さらに軍隊流が加わった。

父の激しい暴言は、家長としての責任を果たさなければいけないという自分に課せられた重荷を表す側面もあっただろう。

 

中学生か高校生のときか覚えていないが、執拗に「なぜ、できない、なぜ、こうしない、だめじゃやないか、そうんなことはだめだとわかっているじゃないか、そんなこともできないのか」と責められていた時、ふとこの言葉は父が言われ続けた言葉ではないかと感じたことがある。

なぜだかわからないが、父が父の母(私にとっての祖母)に責められている光景が頭に浮かんだ。

ただの気のせいかもしないが、祖父が亡くなった時に、心細さでいっぱいになった祖母が父をそうやって責め続けたのかもしれない。

あるいは祖父や軍隊養成の学校で責められたのかもしれない。

 

陰湿な母の暴言

父の暴言はこたえたが、母の暴言はもっと深い傷を私に残した。

父に対しては大学生になってから、理論武装して反論することができるようになった。

それに対して母の暴言は、ほぼ陰湿ないじめだった。

「なってない、なにやってもだめだ、バカ、とろっこい、」人格否定や罵り、それを父や弟がいない2人だけの時に言う。

他人との比較、弟と比較も常であった。

母に何か言われ、論理的に反論して逆らうと、母は私に言い返せない。

父にあることないことを告げ口され、後から突然、父にどやされることになった。

おそらく、母は暴言やいじめやモラハラと共に育った。

強いものには媚び、忖度する。

自分より弱いものや優しそうに見える人は自分の思い通りに動かそうとし、動かない場合は陰湿な攻撃を行うという行動を、身につけたと推測する。

暴力がまかり通る世の中で、母が生きのびるためのサバイバル戦略だったと思う。

 

軍隊の出先機関

私が育った家庭は、パワハラモラハラ、いじめ、満載の軍隊組織の末端のようであった。

父と母がそういう育ち方をして、その考え方や態度を修正することなく、そのまま自分の子育てに適用したということだろう。

民主主義となった日本で、高度経済成長期の華やかな時代にあって、家の中の精神性だけは戦時中のままだった。

 身体的な暴力をふるうわけでも、食事を与えない、世話をしないなどのネグレクトをしているわけではないから、両親は自分たちは良い親であると信じて疑わなかった。

 

子どもに対する暴言が、子どもの脳にダメージを与えていると知ったら、どうしただろう。

母はまだ存命であるが、誰かに責任転嫁するか、聞こえないふりやわからないふりをするか、仕方ないの一言ですますだろうか。

 

戦争の記憶

戦争の時代に子ども時代を過ごしてだった父と母は、暴言、暴力、いじめ、それに加え、娯楽皆無、飢え、爆撃などの恐怖の日々だったろう。

父の脳も母の脳も心も十二分に傷ついていたはずだ。

そしてそのつらい悲しい記憶を自ら口にして語ることもできない。

焦土となった国土は回復したが、戦争当時、子どもであった人々のトラウマは十分に癒されてきたとは決して言えない。

 

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八重咲シュウメイギク


 

 

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