母のペルソナ(仮面)と私の解離
母のペルソナ(仮面)
老いた母と暮らし始め、私が思っていた母と違うことに気づいたことは過去に書いてきたが、また新しい側面が見えてきた。
老いた母の言動が理解できなくて、最初は認知症を疑い、次は自己愛性人格障害を疑った。
そしてその奥に見えてきたのは発達障害だった。
母は人の気持ちを察することが苦手なので、軽い世間話やテンポの良い会話ができない。
母のコミュニケーションにおけるサバイバル戦略は,表面的に同意すること、教会に熱心に通ってクリスチャンという人格者を演じることだったと思う。
それは母の本当の姿ではなく仮面、演じた姿。
母はその仮面が本当の自分の姿であると思い込んでいたと思う。
母が好き好んで人格障害のような症状に陥ったわけではないと思う。
なんとか周囲とうまくやっていくために身に着けた手段だった。
人の気持ちや意図がよくわからない母は、何かをしろと父や他の人に言われてもよくわからなかったり、頓珍漢なことをしたと思う。
父は男が命令し威張って指図するのが当然の家庭に育ったので、命令が遂行されないことに腹をたて怒鳴る。
母はあたふたする、恐い、どうしていいかわからない・・・
母が見つけた自分を守る方法は、「自分はクリスチャンで素晴らしいのに、すぐ怒鳴る父が悪い」と父を心の中で見下すことではないだろうか。
実家で食事をするときに食事の前に母は感謝の祈りをささげる。
小学生の頃は一緒に祈らされ、当番もあった。
父が一緒の食卓で母が祈り、子どもである私たちも祈る。
なんとも嫌な感じがして、食事が美味しく感じられなかった。
その嫌な感じの原因は、その祈りが純粋な神への感謝ではなく、母の父に対する「私はクリスチャンで素晴らしい。」という誇示と父に対する防衛の気持ちが含まれていたからではないかと、今は思う。
家族の中で自分が誰よりも優れていると思い込むことで、何とか生きてきたのだと思う。
私の解離
母が自分の仮面を真の自己と思い込んでいたのと同じように、私も母の仮面を真の母と誤解していた。
母が演じる「思いやりがあって親切で朗らかなクリスチャン」というペルソナを母だと思い込んで生きてきた。
その誤解と思い込みの根はかなり深い(胎児や乳児の時)から始まっていると思う。
仮面をかぶっていない時の母に罵られ、憎しみや怒りの感情をぶつけられる時、私は解離という手段をとった。
自分を分断し、悲しみ、怒りや寂しさという感情をシャットダウンし生きてきた。
母の悪口、憎しみ、嫉妬深いところを意識的に見ないようにしてきたと思う。
そうしていつの間にか母の仮面に自ら取り込まれていったようにも思う。
何かがおかしいと思いつつ、それがわからない。
顕在意識では感じなかったが、様々な体調不良に陥った。
進学、就職、結婚、母から離れていくにつれて、やっと私は少しずつ自分らしさを発揮して生きられるようになっていった。
けれど、根本的なところを理解していなかったので、ずいぶん迷い、彷徨った。