母の激しい嫉妬や敵意の理由
懐かしの佐々木正美先生
このブログを書くために、発達障害について再び自分なりに学んでいる。
そのなかで佐々木正美先生の名を見つけ、40年ほど前の学生時代を思い出した。
記憶違いでなければ、特殊教育(当時の名称)の教科書のなかに先生の本があった。
先生の言葉が書かれているブログに、私の探していた答えの一つがあった。
軽度発達障害の難しさ
軽度であるがゆえに本人も周囲もそのような認識がなく、いつももうひと頑張りすれば障害や問題も何もなくなるという前提で,
育てられ、生きてきたということは不幸な結果につながりやすい。
発達障害の特性のために努力してもできないことがあるのに、常に普通であることを要求されて「がんばっているね、」「それでいいんだよ」の肯定の言葉はもらえない。
彼ら彼女らは心身ともに疲れきり、自信をなくし、周囲の人からの信頼も失っている。
劣等感が強く、家族や周囲の人に対する嫉妬や敵意などの攻撃的感情も少なくない。
他のもっと重い障害を持っている人達よりもはるかに自尊心や自己肯定感を失い、家族との心理的関係もこじれてしまっているのが普通である。
以上は
http://blog.livedoor.jp/budouno_ki/archives/51530161.html
を参考にまとめた。
嫉妬 母娘の一番厄介な感情
母は昭和4年生まれである。
昭和4年世界恐慌 昭和6年 満州事変 昭和12年 日中戦争 昭和13年 国家総動員法 昭和16年 太平洋戦争 昭和18年 学徒出陣 昭和19年 学童疎開 昭和20年 広島と長崎に原爆が投下される 8月終戦
母の生きた時代は、子どもの特性に合った教育など考えられる時代ではなかった。
それでも、どこかの田舎で戦争の影響の少ない環境で生きられれば、もうすこしのどかな子ども時代を過ごせたかもしれない。
残念ながら、母の父(私にとっての祖父)は軍人であった。
親類縁者は、教師と軍人が多く、当時としては高学歴の人が多かった。
母は私に勉強、勉強、と言い続けた。85点をとればなぜもっと良い点を取れないかと言い、95点をとればなぜ一つ間違えたのかと言い、100点をとればずっと100点をとれといった。
母はもっと頑張れと私に言い続けたが、それは母が育ちの中で言われ続けたことであったのだろう。
定型発達の人が多いこの世界では、おそらく私は母よりも優秀で友人を難なく多く作り、母と共に行く教会でもかわいがられた。
母は、私のことで自分が褒められればうれしかっただろうが、私が母を超えていけばいくほど嫉妬の気持ちも大きくなっていったと思う。
定型発達の親も娘に嫉妬する母親は少なくないだろう。
そんな母親たちもきっと自己肯定感、自尊心が低い人たちで、「これでいい」「いまのあなたでOK」と肯定してもらった経験がないか、少ない人たちなのだろう。
今の自分が母を肯定することはできる?
母に完全否定されて育った私が、母を肯定することができるかどうか。
自分の生育歴から考えると難しいが、あまり深く考えない方がうまくいくと思う。
2世帯住宅にしてから、個人で高齢者サービス住宅を運営していると考えるようにした。
過不足なく淡々と業務をこなすように対応する。
家族と言えるのかと問われれば、一般的なイメージからは離れるが、これも家族の一つの形態ということになる。
こどもには理解者が必要
障害児教育に携わっていた時に、自分の子どもの障害を受け入れることが難しい親御さんたちに出会った。
今となってその親御さんが何を思っておられたかはわからない。
心理的なものか、世間的なものか、親類縁者などのしがらみなのか。
けれども、子どもにはよき理解者が絶対必要である。
発達障害を抱えているのならなおさらのことである。