毒親(発達障害)と生きる

共感・肯定ゼロ 否定と操縦の子育てからの回復

人生は楽しみながら学ぶことなのだろう おそらく

 

教育(特殊)を学び、働く

40年近く前、私は大学で教育学および特殊教育学(当時の名称)を学んだ。

大学卒業後は、10年近くは発達に障がいがある子どもの教育、療育に携わった。

 職場では多くのことを学んだ。

最後は体調を壊して燃え尽きたようになって仕事をやめた。

結婚しても子どもを産んでも仕事を続けたいと望んでいたが、それはできなかった。

 

今思うと、父からは過干渉・母から心理的虐待を受けて育った私は常に必要以上の緊張をしていた。

いつも神経を張り詰めて母の感情的な怒りが爆発しないようにに、細心の注意を払っていた。

空気を読んで母の行動を予測し、母の機嫌が悪くならないように言葉も行動も気を付ける。

背中はパンパンに凝っていた。そのことに大学を卒業して就職するまで自覚がなかった。

いわゆる過剰適応というものだろう。

それが通常の状態になり、疲れやすく、人の言葉にに極度に反応してしまうところがあった。

 

スローライフに移行

 仕事を辞めた後、自然豊かな場所に移り、畑作業やマクロビオティックに凝った。

天然酵母でパンを焼き、野菜やハーブを作り、収穫して食した。

完璧なまでにこだわっていたが、そんな日々を続けるうちに少しづつゆるい部分も出てきた。

毎日が楽しく充実していた。

子どもを授かり、母を反面教師に肯定と共感の子育てをしようと心がけた。

教育を学んだこと、職場の先輩や同僚の先生方に教えてもらったことは最大限生かされたと思う。

 

 子どもが学齢になると通常の学校教育に疑問を感じていた私は、夫を説得してシュタイナー教育を子どもに受けさせることにした。

そのために転居し、環境は激変した。

その変化は離婚という結果を招いた。

 

離婚

子どもにシュタイナー教育を続けさせることもできず、母一人子2人の暮らしが始まった。

精神的にかなり追いつめられることもあったが、子どもたちはかわいかったし、親子3人の暮らしは楽しかった。

少し大げさかもしれないが、子ども(こころ)を守り抜くという使命感だけで生きていたように思う。

けれど、むしろ助けられていたのは私の方かもしれない。

子どもは無条件に親を愛してくれる存在だから。

私は年齢を重ね、子どもたちは成長した。

自分のことは自分で決めて行動するという年齢になった。

 

子育て~介護へ

その頃、父が亡くなり母との同居が始まる。

このブログはこれ以降の話が中心である。

 

 

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エゴの花