愛着障害は当たり前だった・・・
愛着障害が当たり前だった
最近、読んだ本にこう書いてあった。
「愛着障害で当たり前だった」だった時代が続きました。
愛着障害は治りますか? 自分らしさの発達を促す [ 愛甲修子 ]
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愛着障害で当たり前・・・
私も実は、愛着障害を知ってから、ひと昔前は愛着障害がある人がほとんどだったのではと考えていた。
江戸時代には、子は親の所有物で家族が生きるために、身売りされることや奉公先で使役されることも当たり前だった。
今でいう人身売買や児童労働である。
明治になってからは、武士の家の概念が、国民全体にに適用され、家の存続が重視されるようになった。
家父長制である。
家族は家長に従い、女性は従順であるように求められ、親に従い、結婚すれば夫に従い、老いれば子に従うことが美徳だった。
男子も複数いれば長子は跡取りと大事にされるが、次男、三男は単なる働き手と扱われることが多かった。
このような家族制度のもとでは、主体性を獲得する必要もなく、むしろ主体性は邪魔で、愛着障害がある方が生きやすかったといえる。
歴史の中の愛着障害
目を転じれば、歴史の中で人を家畜のように見なす奴隷制度も長く続いた。(現代ももある?)
人権侵害を受けて当たり前、の時代には「誰かの顔色を伺い、自分らしさを殺す」のは悲しいけれど、有効なサバイバルスキルでした。
けれども今はそれはもう通じません。
そのことに気付いていない人が多いのかもしれません。
子どもの時代もそうでしょうし、親の世代もまた、前時代をひきずっていると、子どもをペット化しようとして時代遅れの感性で時代についていけない子どもを育ててしまいますね。
現代になって、家畜のように人を扱う場面はぐっと減っても、今度は親による「ペット化」に大人になっても悩まされ、精神を病んでいる人も多いでしょう。
「こうなってほしい」
という親の願望が狭すぎたり、強すぎたり、あるは子ども側が真に受けすぎた人たち。豊かなおうちや豊かな時代など、豊かさから生まれる愛着障害もありそうですね。
「愛着障害は治りますか」より
時代の転換期
老いた母親と暮らし始め、一番に感じたことは、ものの見方や考えかたが全然変わっていない、不自然なほどにアップデートされていないということだった。
父に亡くなる前に会えば、父もそうだったのかもしれない。
パソコンや携帯は使えるようになっていたし、教会に行って若い人とも交流があるから、それなりに時代についていっているのではないかと勝手に想像していたが、そんなことはなかった。
話していると時間の流れが逆流し、時空が歪んで過去に戻されるような感覚になる時もあった。
子どものペット化
両親によって、極度に危険につながりそうなことから遠ざけられ、囲い込まれ、過剰に守られ過ぎて、指示通りに動かされた結果、私は成長する体験の多くの機会を奪われてきたと感じる。
けれど、社会に出て行ったとき、ペットのままでは生きていけない。
自分で考え、選択し、行動をする力が育っていなければ、たちまち窮地に陥る。
10年くらい前だとおもうが、通り過ぎのブログで、動物園(家庭)で餌を毎日もらっていたのに、突然、何の訓練もなく、野生の自然界に放たれたというような意味のことが書かれていたのを記憶している。
それを読んだその書いた方の気持ちが痛いほどわかった。
姿は大人なのに、それに見合うだけの生き抜く力が育っていない。
親も子のそんな姿を見て、こんなはずではなかったと思ったかもしれない。
親が気づかないうちに、社会や世間のありようは変化していったのだ。
目上の人や権威のある人の言うことだけを聞いて従うだけでは通用しない時代へと、変わっていった。
そして何よりも、子ども(私)本人が、誰かに従って忖度する人生なんてまっぴらごめんと感じていたことに、両親は気づいてはいなかった。
*次回、愛着障害を克服していくヒントを書きたいと思っています。