毒親の幅と社会の変化
毒親の幅の広さ
毒親と一口に言っても、親子の関係は千差万別である。
親の態度も酷い身体的・性的虐待・ネグレクトや暴言から、躾や子どものためと称した心理的操作・自由や選択を奪う、表向きの言葉だけではよくわからない虐め、
親自身が精神的な問題、発達障害を抱えていて、適切な養育ができない、子どもの育て方や関わり方がわからない等、多岐にわたる。
しかし、だからこそ、これ程広く受け入れられて、親との関係に悩む子(成人した子)によって「毒親」という言葉が使われるようになったのだろう。
また、「毒親」と言えば、詳しいことを語らなくても、概観は伝わるようになったのは、毒親育ちにとっては助かった。
毒親と認識するまでの時代背景
私の場合、身体的・性的虐待・程度の酷いネグレクトはなかったが、自分で何かを決めることも、自由に感情を表したり、意見や感想を言うこともできず、否定され、両親の事細かな命令や指図に従うしかなかった。プラス母親の隠れたところでの虐めがあった。
短く言えば、過干渉な親、個性や価値観の多様性を認めない親で,,,母親にはストレス発散の対象にされたということになるだろう。
結婚後はそれに義両親&夫の決定にも従うことも加わった。
義母の愚痴交じりの延々と続くおしゃべりにも付き合わされた。
その頃は、サラッと聞き流すような技術は持っていなかった。
義両親は結婚後、子どもが10年間できなかったが責めもせず見守ってくれていたが、私には何かの事柄に対する決定権や拒否権はなかった。
親、義両親、年配者には何かにつけて感謝しなければならないという空気だった。
結婚後は頭の中に「女三界に家なし」という言葉がよく浮かんだ。
大学を卒業して仕事をしていても、周囲の女に対する扱いは旧態依然だった。
寿退社という言葉もよく使われていた。
私が長女を産んだ時は20年と少し前だが、親のことを悪くいうことは許される雰囲気はなかった。
そのような経緯で、私は自分の親が「毒親」の範疇に入る親であるとはっきりと認識したのは、年老いた母親と同居するようになってからだった。
自分がどのように育ってきたかを直視し認識するまでに、実に半世紀以上かかってしまった。
毒親という言葉がもたらしたものとこれから
パワーハラスメントという言葉が日本で使われるようになったのは、2000年以降である。
その後、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント、マタニティハラスメント、などの概念も広がった。
これらは社会的な場面で、強い立場の人が弱い立場の人に対して人格や尊厳や権利などを侵害する行為に、NOと言える意識を少しずつ醸成してきた。
Me Too 運動もあった。
日本の #MeToo:沈黙を破り始めた女性たち - BBCニュース
一方、「毒親」という言葉は、家庭というプライベートな空間で、親という権力者の理不尽な行為に、NOと言う意識が広がったととらえることもできる。
しかし、幼い子どもの場合、自分の状況を言葉で説明することはできない。
まして、自分の家庭の状況を周囲と違うと認識して助けを求めることは、不可能に近い。
戦後、日本は驚異的ともいえる経済的成長を成し遂げたが、成果や効率を重視する風潮は、より弱い立場にいる人、特に母親と幼い子らに負担を強いてきたと思う。
男が外で仕事をしてお金を稼ぐ、女は家で家事と子育てをする、親子だけの核家族というのが1960年以降の家族形態として一般的になった。
子育ての全責任は、ほぼ母親のみに負わされることとなった。
子育て以外の家事、介護、地域のこと、PTA等、このほか家によっては家業などの仕事までが女性の役割になってしまった。
まともにやろうとすれば、コンビニに負けず劣らずの年中無休、24時間営業のブラック労働である。
無給、やって当たり前、落ち度があれば責められ、感謝もされない。
3歳児神話もあり、保育園に預けるのはかわいそうと言われる。
日本の女性の地位が低く、ジェンダー格差が世界で110位なのも納得する。
さて現在、パワハラ、セクハラなどをしてしまう大人たちも、かつては子どもだった。
おそらく、そうした行動をする人は、愛情たっぷり受けて育ってきてはいない。(甘やかしは別)
教師や親の体罰、怒鳴り、厳しい叱責は当たり前、我慢をしろ、忍耐しろ、弱音を吐くな、と繰り返されて育った。
だからといってパワハラなどをしてもいいというわけではない。
国連でトゥーベリーさんが演説をした。
かつては子どもだった大人達が、16歳の少女に叱咤激励されている。
経済や効率を優先してきたツケは、地球の気候にまで及んでいる。
愛情をもらえないまま育った人も、両親に愛情を注がれ大切にされて育った人も、ともに、希望を紡いでいきたいと私は思う。