毒親育ちに自己肯定感を持てと言わないで~なるべく~
自分の存在の不確かさ
「毒親」という概念が広がる以前、不安感や居場所がない感によくとらわれていた。
人生がそれなりに回っている時にはそこそこ安定しているのだが、ストレスがかかると精神状態は坂を転がり落ち、怒涛のように押し寄せる不安に押しつぶされそうになった。
自分という存在が不確かで、人生をどう生きていけばいいのかまるでわからなく、迷子のようになってしまうことが、たびたびあった。
自己肯定感がないのは結果
たびたび引用するこの本から引用する
彼らが自分のことを、愛される資格がない、生きる値打ちがないと思っているのには、その核心の根拠となる原体験がある。
彼らにとって最も大切な存在が、彼らをあからさまに見捨てたか、可愛がっているふりをしていたとしても、本気で愛してはくれなかったのだ。
「本気で」とは、口先ではなく行動で、ということであり、彼らがそれを一番必要とした幼い時に、彼らのことを何よりも優先し、気持ちだけでなく時間と手間をかけてくれたということだ。
大切な人が、彼らのことより外の事に気を奪われることがあったとか、自分自身のことや生活のことに追われて、どこか上の空であったというとき、幼い子は「自分一番大切な存在だ」ということを味わい損ねてしまう。
自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった大人たちに臆面もなく言う専門家がいるが、それは育ち盛りの時に栄養が足りずに大きくなれなかった人に背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。
自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。
それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことのない人が、口先の言葉で言う言葉に思える。
一番大切な人にさえ、大切にしてもらえなかった人が、どうやって自分を大切に思えるのか。
むしろ、そんな彼らに言うべきことがあるとしたら、「あなたは自己肯定感を持てないのも無理はない。それは当然のことで、あなたが悪いのではない。そんな中であなたはよく生きてきた。肯定できている方だ」とその人のことをありのまま肯定することではないか。
自己肯定感という言葉自体が、その人を否定するために使われているとしたら、そんな言葉はいらない。
*太字と文字の色付けがブログ主
ヒトの子どもは極めて未完成、未熟な状態で生まれる。
その時期に愛情と適切な養育を受けられなければ、その影響は極めて大きい。
毒親育ち(愛着障害)は必死に生きてきたことを肯定してほしい。
アラカンというのに、私は子どものようなところがある。
良い方に出ることもあるが、いい年をした大人があまりに子どもなのはいただけないと自分で自分に突っ込む。
そんな自分を許せず、さらに責めて、自分で自分を虐めてきたと思う。
しかし、そうなったのも今までの環境の結果であり仕方がなかった、と自分をそのまま受け入れることができるように、やっとなった。
「人は誰しも平等の人生が与えられるわけではない」と今までの自分の人生をまるごと受け入れる境地にやっとなってきた。
親に愛され、肯定されなかったから、否定され続けてきたから、何かを成して人に認められたい、肯定されたいとあがき続けてきたと思う。
そうしながら、そうなれない自分を責めて、虐めてきたと思う。
だから、毒親育ちに自己肯定感・・・とか、認知の歪み・・という言葉をなるべく言わないでほしいと思う。
親から与えられなかったものを、必死に自分の力でつかみ取ろうとあがいてきたのだから。
そのあがきさえ、否定され、ギリギリのところを生きようとする力さえ奪い取られることすらあったのだから。
自己肯定感があまりないのも、認知に偏りがあるのも、そうなりたかったわけではなく、結果だから。
ここまでなんとか生き抜いてきたことを肯定してほしい。
それらのことを、いつか自分からテヘペロで話せるようになるまで、時間がかかると思うけれど、待ってほしい。