毒親(発達障害)と生きる

共感・肯定ゼロ 否定と操縦の子育てからの回復

「ありがとう」と「ごめんなさい」

 「ありがとう」「ごめんさい」を言えない母

8年前に老母と暮らし始めて、母は感謝とお詫びの言葉を言わない(言えない?)ことに気付いた。

アスペルガー症候群の人は、謝罪やお礼、あいさつ、世間話、社交辞令がうまく言えない特徴がある。

予定外の出来事や突発的事項に対応するのが難しい面もある。

 

 母は家庭外では良いクリスチャンで通用しているようだが、感謝や謝罪という基本的なコミュニケーションが全くできない。

自分が親で相手が幼い子ども等の力関係がはっきりしている場合なら、差し迫った問題に直面しないかもしれない。

しかし、老いて手助けを必要とするようになった時に「ありがとう」「ごめんなさい」を言えないのは、周囲との軋轢やトラブルの要因になり、適当な手助けを得られない可能性がある。

 

「ありがとう」「ごめんなさい」を知らなかった私

そんな老いた母の様子を見て、忘れていた幼い日の記憶が或る日突然よみがえった。

幼稚園の年長の時、オルガン教室に通わされていた。

おそらく、自由で楽しい雰囲気の教室だったのだろう。

私は、並んだオルガンの周囲を左右のオルガンの上に手を乗せて身体を持ち上げたりしながら、室内を動き回ってはしゃいでいた。

そのうちにオルガンのふたをぱたんと閉めてしまい、オルガンを弾いていた子どもの指を挟んでしまった。

練習が終わって、その子だけが先生に教わっていたようだ。

泣いているその子を前に私は「ごめんなさい」と言いなさいと先生に言われた。

私は頑なに言わなかった。

先生にお友達がが指が痛くて泣いているよ、謝ろうね、などと言われたと思う。

その時の気持ちがどうだったのか思い出せないのだが、一番近いと思う答えは「あやまるということがよくわからなかった」だと思う。

泣いているお友達を見て自分が悪いことをしてしまった、どうしようという感覚もなかった。

共感してもらうという経験がなかった私は、感情も育っていなかったと思う。

 

母が迎えに来て、先生が私が謝らないと母に報告したようだ。

母と一緒に家に帰ったが、母に叱られた記憶もそういう時は「ごめんなさい」というのだと教えられた記憶もない。

そんな事件を思い出しながら、家の中で母が謝ったり、お礼を言った記憶はないことに改めて気付いた。

 

親としての責任

発達障害の母に育てられた私は、どこか変な子どもだっただろう。

それに気付いた最初の大人は、私の記憶の限りでは、オルガン教室の先生だったのではないだろうか。

この時の私は幼稚園に通いだして2年目、外の世界の決まりをまだよく理解していなかったのかもしれない。

その後、自力で外の世界の法則を理解していくことになる。

その道筋は楽ではなかったと思うが、それが楽なのか大変なのかということもわからなかった。

母の場合はどうだっただろう。

あの時、何かしらの謝罪は口にしたと思うが、「申し訳ございません、よく言い聞かせます。」のようなことは言わなかった。

母に、自分の子どもの行動に責任を負うという親としての感覚はなかったと思う。

発達障害を持つ母は、自分が体面を何とか保って生きることだけで、いっぱいいっぱいだった。

 

経験不足と悪循環

 昭和4年生まれの母が生まれ育った時代は、明治以降の家父長制が続いていた時代である。

家の中でも明確な上下関係があり、平等な関係ではなかった。

対等な関係としての「ありがとう、ごめんなさい」を言う経験はほとんどなかったと思う。

発達障害の特徴として、一度思い込んでしまったことはなかなか変えることができないこともある。

 お礼と謝罪をうまく言うことができずに時が経過し、年齢を重ね、教会の中で周囲の人よりも年長になり、何も言わないでも周囲の人が勝手に持ち上げてくれるようになっていったのかもしれない。

 

(教会は自由で平等なところ思われるかもしれない。私の経験の範囲内の話だが年齢による上下関係は暗黙の裡にある。神の前では人はみな平等であるはずなんだけれども。)

 

 

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