毒親(発達障害)と生きる

共感・肯定ゼロ 否定と操縦の子育てからの回復

世間話は高度なコミュニケーション?

 おすそ分け

母から「弟のところから送ってきたジュースを飲みますか」とメールが来た。

おすそ分けしてくれるようだ。

「一人で飲みきれないようならもらいます」と返信した。

ここまではまあ普通のやりとりだ。

2世帯住宅にして生活場所をきっちり分けているので、急がない用事はメールでやりとりしている。

 ちょうど母宅の外階段を大工さんが直しに来る日だった。

大工さんが階段を直している時に、玄関から出てきてジュースの入った袋をくれた。

「ありがとう」と私が言うと、

「冷蔵庫の場所ふさぎがなくなって良かった。」と真顔で抑揚がない一本調子の声で言い放つ。

 

一般的な感覚では、ものをあげるときは相手の立場での言い方をすると思う。

(たぶん)

美味しかったよ、少しだけど、○○君(孫の名前)ジュースは好き?とか。

母は冷蔵庫の場所が空いてよかったと自分にとっての事実を述べた。

言葉の意味は事実であるが、表情、声の抑揚がほとんんどないので、真意が読みとれない。

どう反応していいかわからないので、何も言わないでいると、もう一度繰り返された。

「冷蔵庫の場所ふさぎがなくなって良かった。」

何か返すとしたら、「そうですか」くらいになるだろうか。

 

言い換えるとしたら

「冷蔵庫の場所ふさぎがなくなって助かった。」だろう。

これでも笑顔も抑揚もなく真顔で言われたら、不愉快な印象になってしまう。

 

庭の花

母宅の玄関口から見えるクレマチスの花が満開になった。

「教会の人が迎えに来てくれて『きれいね』と言った」と抑揚がない真顔でいう。

母は教会に通っているクリスチャンだ。

教会の人が「きれいね」と言ったのはわかった。

これは事実を述べている。

母がどう思っているのか、何を言いたいのかわからないので、どう答えていいかわからない。

仕方がないので、「ここまで咲かせるのに3年かかったよ」と答えた。

会話は続かない。

 

世間話の高度なコミュニケーション

今日、通りかかった近所の人が声をかけてくれた。

「咲いたね~」

よく声をかけてくれる人だ。

「咲いたね~」短い言葉だけれど、たくさん咲いてきれいだわ~、見ごたえあるわ~という感じが伝わってくる。

「風があまり当たらない場所なのが良かったみたい」と答える。

「そうなの~うらやましいわ~」

と会話は続いていく。

 

他の近所の人「(今年も、)はじまりましたね。きれいですね。」

私 「ありがとうございます。」

近所の方「いえいえ、こちらこそ、楽しませてもらっています。」

 

短い会話だけれど、ちゃんとお互いの言いたいことや気持ちが伝わっている。

普段は特に意識していないけれど、声色、表情、抑揚、など、言葉にプラスした要素を使って、コミュニケーションをとっていることに気付く。

 

母とコミュニーケーションがとれないと感じるのは、言葉の選び方もそうだけれども、声色や声の抑揚・顔の表情の変化・手ぶりや身振りなどの表現がないことだ。

近所の人は母と話すよりも互いの距離が遠い。

顔の表情がよく見えない距離で話しているのに、意味がわかる。

何気ない世間話や雑談においても、私たちは特に意識せずに暗黙の了解の部分や共通認識を相当使いこなしているようだ。

 

 

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ツユクサ